優秀さをもって主を証することはできますが、それよりも励ましや慰めを与える方が力があるでしょう。 今日は同期の一人が欠勤していました。あまり研修の進みが芳しくなく、悩んでいたふしがあるので心配になりました。一度励ましをしたことはあるのですが、なかなかかける言葉も難しく、フォローできていなかったところがあります。帰りに勤怠カードを切るとき、その人のカードがなくなっていました。まだその人に主を証していません。最後にその人を見たのは、大通公園を北大のリバイバルのために祈りながら歩いているときでした。ベンチで一人で座っているので、声をかけようか迷いましたが、祈っている最中だったので、私はあの強盗に襲われて半殺しになった人の脇を避けて通った祭司やレビ人のように、通り過ぎました。愛の実践の機会を逃し、救いに導く機会を逃してしまい、心が痛みます。 自分の責任の範囲の中にいる人々に対して、私はどれだけ忠実でいられるでしょうか。
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昨日の昼、派遣会社から着信が入っていたので折り返したら、高い評価を受けているため、いまの研修内容とは全く別のチームへの配属を打診されているとのことでした。 それはそれとして北大のために祈りながら大通公園を歩き回りました。最後にベンチで祈っていると、ふと隣を見ると研修チームのリーダーがいたのでギョッとしましたが、気を取り直して職場に戻りました。 配属を打診されているチームはこれから確実に拡大していく見込みのあるところでした。おもしろそうだったので、日曜日の休みと、北大の集いのときに早めに帰る約束を取り付けた上で引き受けました。 後で研修チームのリーダーの人と一対一で話しました。その方によると、私は同期の12人の中で一番高い評価を受けているとのことでした。ハレルヤ!御自分の民を頭にしてくださる主の恵みに感謝します。 話はそれでしまいかと思いきや、「どこの教会に行ってますか?」と聞かれました。何とそのリーダーの方はクリスチャンで、ジェリー先生のこともジェラルド先生のこともよく知っており、一時期は教会の見習いスタッフもしていた人でした!不思議な主の巡り合わせもあるものです。
21日の礼拝では、5年間全く歩けなかった人が癒しの祈りを2回受けたあと、「新しい足をもらったようだ!」と驚いて、そのまま歩きだしました。全く歩けず、筋肉もほとんどなかったはずなのに、片手で歩行器をつかんでいるだけで歩けるようになりました。ハレルヤ!主の御名を賛美します。 人生で与えられている時間は有限です。何事でも成功する人は「選択と集中」ができる人です。神の民であれば、主がその人に命じられたことに集中すれば、大勝利は間違いありません。私は自分が集中すべきことが何か、最近やっと自覚しました。 そもそも私が札幌に来たのは北大の福音化のためでした。何年も前からなぜかそういう思いが与えられていました。それで北大から徒歩1分の場所に住所を定めました。 ICF教会は私が初めて行く少し前に、ある預言者が「北大の福音化が北海道のリバイバルの鍵だ!」と預言しました。私はそういうときにICFにつながりました。 そして、先月のホームカミングでは、台湾霊糧堂の預言者の卵から、私が「ジョシュアの世代の救い」に用いられると預言されました。霊糧堂の人はホームカミングに来る前に「日本にはあなたが励ます人がいる」と預言されていました。 こういう一連の流れの中でも私には実際のところ、なぜか確信がありませんでした。今月、ある兄弟の的をついた言葉をきっかけに繰り返し預言の言葉について考えるようになりました。いつも御声や御心を求めて祈っていたにもかかわらず、なぜかすでに何をするべきか示されているのに気づいていませんでした。主から「これをするように」と示されているというのは何と幸いなことでしょう。今までは集中できていませんでしたが、今後は北大の福音化のために集中して祈ります。  
昨日の十字架の兵士ととある学生との会話。 十字架の兵士「教会に行ったことはありますか?」 とある学生「はい、通っています」 十字架の兵士「そうですか!なぜ通っているのですか?」 とある学生「キリスト教だからです」 十字架の兵士「ということはクリスチャンですか?」 とある学生「はい、クリスチャンです」 十字架の兵士「私はいま福音を伝えていたのですが、クリスチャンなら福音は聞いたことありますよね?」 とある学生「はい、もちろんです」 十字架の兵士「そうですよね。では、福音とは何かわかりますか?」 とある学生「もやもやしていてわかりません。説明できないだけでわかると思います」 十字架の兵士「説明できないということはわかっていないのではないですか?」 とある学生「教会には親が行っているから行ってるだけで、私はよくわかりません」 十字架の兵士「では、今まで一度もイエス・キリストを心に受け入れたことはありますか?」 とある学生「ありません」 十字架の兵士「ではクリスチャンではないということになりますね」 とある学生「はい、クリスチャンではありません」 十字架の兵士「では、今から福音を簡単に伝えますので、聞いていただけますか?」 とある学生「もう行かなければなりません。さようなら」 「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」 この学生は救われているでしょうか。キリストを知らない人は教会に通っていても決して救われていません。 毎週教会に通い、自分のことをクリスチャンだと言っている私たちの家族や友人は、本当にイエス・キリストを知っているでしょうか。自分自身は、本当にイエス・キリストを知っているでしょうか。主に対する応答が単なる形式的な習慣にとどまらず、私の内なるものすべてが「Yes!!」というものでありますように。
 今日はタコスパーティーです。  先々週、聖霊充満な中学生と伝道していたとき、1年前から教会を離れていた高校生の兄弟と会い、今日、礼拝に回復しました。さらに、そのときに伝道した女子校生が私の知らないうちに来て、新来者カードに記入し、中高生の集まりまで参加していました。その人も何年か前に教会に来たことがある人でした。ハレルヤ!放蕩息子が戻って来るのを願われる主は、今日、2人が御元に帰ってくるために働いてくださいました。 教会から離れていた兄弟は、教会に通っていない間、心に平安がなかったそうです。そりゃそうです。神様から離れていてどうして平気でいられるでしょうか。一度恵みを知ったら、世の生活に満足できるはずがありません。私たちには神様の愛と恵みがどうしても必要なのです。
 今日は感謝なことに、北大の集いに先週来た姉妹がいちごチョコ味ケーキとシュークリームを作ってきてくれました。 新しい人は、特に来る予定はなかったのですが、エトルリア人の聖霊充満な留学生がつい10分前に会ったという中国人の留学生を伝道してきました。ハレルヤ! そのエトルリア人の留学生は聖霊様の導きに従って毎晩3時間も祈っているそうです。 昨日から私の職場の真ん前の大通公園ではヨサコイが始まりました。研修を受けているとリハーサルの吹奏楽の演奏が聞こえてきます。東京にいたとき、教会で踊ったのを思い出しました。日曜日まで毎日やるので、一度見に行こうかと思います。ところで、ソーラン節はイスラエルと関係があるという説があります。実は神様を賛美する内容だというのです。おもしろい話ですね! http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=105
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」 私はずっとフルタイムの献身者としての生き方が自分にとって最高であり、それしかないと思っていました。他の道は妥協に過ぎないと。 しかし、今はよく分かりません。神様に用いられたいとは願いますが、自分でフルタイム使役者になりたいからなるというだけでは十分ではないようです。少なくとも聖霊様からは今ではないと続けて語られています。 「教師になってはなりません。」 この御言葉を今ほど畏れをもって受け取れるときはありません。主の僕が倒れたという話は嫌と言うほど聞きました。成功例よりも失敗例の方が多いようです。神社やお寺に油を注いだ人の話がニュースになりましたが、他人事とは思えません。思い上がって肉的な思いで何かを始めたら、私はきっと多くの人のつまずきになるでしょう。用いられたいという願いは持ちつつも、主からのはっきりとした指示、特別な力の付与があるまでは、待ちます。仮にそれが20年とか30年後になったとしても。
イエス・キリストは罪人の友となられました。だから、私も未信者を心から尊敬し、彼らの友となりたいと願います。実際、世の中の人であっても自分より優れている人たちが多く、まだ主を知らないというだけで、心から尊敬している人たちはたくさんいます。彼らは、それぞれの人生を必死に生きています。 私は教会の中にいるファリサイ人たちより、彼らの方がずっとすばらしいと思います。ファリサイ人たちは社交クラブのようなものを作って他の人がそこに入るのを許しません。いつも神様の愛のメッセージを聞きながら、初めて教会に来る人がいると心の中で彼らを裁き、偽りの笑顔を見せながら「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな。わたしはお前にとってあまりに清い」と思いめぐらします。初めて来た人たちはその反応を見て恥をかき、二度と教会に行こうとは思いません。それでいてファリサイ人たちは「神様がいつリバイバルを起こしてくださるのだろう」などと言ったりします。外にいる人たちが滅びようとしていても、全くの無関心なのに。 教会に来る人たちは、たいていちょっと変わっていたり、いろいろと訳ありだったり、問題を抱えていたりするのです。主イエス・キリストは彼らを心から愛して抱き寄せたので、イエス様の周りには人の群れが尽きませんでした。教会は主の御姿に倣うより、放蕩息子の兄のように、弟の悔い改めを疎ましく思う人が多いようです。そういう教会はいつか死にます。
「それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。」 神様を信じないという人がいますが、神様は信頼に足る方です。信頼できないのは人間です。人は趣味のように嘘をつき、平気で約束を反故にします。誓っては破り、約束しては忘れ、「何も悪いことはしていない」と自分を偽ります。破っていいような誓いがあるでしょうか。忘れていいような約束があるでしょうか。主は主に対して誓ったことをすべて覚えておられます。主は私たちのどんなつまらない言葉も裁きの日に責任を問われます。他でもない、自分の口から出た言葉が私たちを裁くのです。 「一生イエス・キリストに仕えます」と言いながら、都合が悪くなるとすぐに救い主を裏切る放蕩息子たち、イスカリオテのユダたち。「献身します」と言いながら、ぬるま湯に浸かったままの怠け者たち。 さあ、あの時誓ったことを、いま、思い出しなさい。いま、時のある内に、自分の言葉の通りにしなさい。
先ほど大学生に福音を伝えて教会の礼拝に約束しました。ハレルヤ!主の導きがありますように! 最近、改めて伝道の秘訣をつかんだ気がします。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」私が好きな御言葉で、伝道のためによく黙想し、祈る箇所です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と書いてあるので、多くのクリスチャンはすでに伝道の三要素のうち、力と聖霊は持っています。多くの人に何が足りないのかというと、強い確信です。「絶対に伝道できる」と確信して伝道するとき、必ずと言っていいほどうまくいきます。 ICFでは数週間前から月から土まで朝6時から8時まで早天祈祷会が持たれるようになりました。伝道で残る実をもっと結ぶためにと、昨日の朝、初めて参加してみました。献身者が始めたのではなく、祈りに重荷を持った一人の信徒が始めたものです。彼は他に来る人がいないときでも忠実に席を守っているようでした。 ICFでは伝統的に誰か「これがやりたい!」と志が与えられた人がミニストリーを始めるそうです。それで私も長老から伝道のムーブメントを起こすようにと勧められたのでした。東京にいたとき、「ほかの教会に行っても伝道や弟子訓練はやらせてもらえないよ」と重ねて言われました。確かに多くの教会ではそうなのでしょうが、ICFではむしろ伝道は歓迎されており、新しいムーブメントを企画することも、比較的自由にすることが許されているようです。良い教会だと思います。 ある兄弟と話して、6月13日に最初の伝道のレクチャーと実践の集いを持つことになりました。伝道熱が札幌に燃え広がる契機となりますように。
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