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今日、神様が素晴らしいことをなさる

今日、神様が素晴らしいことをなさると信じて祈っています。私を愛してくださる方は、私に良い物を与えたいと願っておられるのです。だけど、私が考える方法でそれをくださるとは限りません。だから、方法は神様にゆだね、内容も神様にゆだねます。神様は最高の方法を知っておられ、私に一番良い物をくださるからです。それを確信する人は幸いです。

神様はサプライズが好きな方です。私たちの知らないときに、思わぬタイミングでことを行われます。夜まで待って何も起こらなかったとしても主がなさることを期待しましょう。サンタクロースは子供が起きているうちは絶対に来ません。子供がぐっすり眠っている深夜に訪れます。朝、子供たちは起きて、プレゼントがあるのを見て喜び踊ります。神様は私たちがそのように期待して待ち、感謝して喜ぶことを喜ばれます。

なんとなく私はそういう信仰が与えられ、今週の月曜日から祈りの中で宣言し始めました。「今日、神様が私の人生にしるしや不思議、何かすばらしいことをなさることを信じます」水曜日の夜、教会の聖書勉強会からの帰り道、自転車に乗りながら、私はもう一度期待して祈りました。「今日、神様が何かすばらしいことをなさることを信じます!」もう夜22時くらいで、いつもなら1日ももう終わりで、何も起こらないと思うところですが、神様にとって何時だろうが関係ないのだと信じる心が起こりました。最後の最後まで信じて期待するとき、主は私たちの信仰をご覧になり、働かれます。

深夜0時頃、寝てるときもある時間でしたが、そのときはまだまだ起きていました。月曜日に一緒にラーメンを食べた友達から、木曜日の聖書勉強会に参加したいとfacebookで連絡が来ました。ガラケーの人なのでPCからの連絡でしたが、すぐに返信ができました。去年12月からずっと交わりを持っていた友達が半年越しに主にある交わりに加わったのです。ハレルヤ!主のおもしろい介入は結局彼の導きのためだったと信じます。

先ほど集まりが終わりました。今までで一番多い十人が集まり、楽しい一時を過ごせました。あまり交わりがなかった人とも交わることができました。主に感謝します。主は明日もきっとすばらしいことをなさると信じます。
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[ 2015/05/28 22:19 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

私がどういう存在か

「あなたはこういう人でしょう!」と完全に誤った判断をくだされることがあります。血液型も見当はずれで、性格も確信を持って間違えてくれます。それが良い判断であれば励ましになりますが、悪い判断の場合、ちょっとした精神攻撃です。

一人の人間にはいろいろな面がありますが、他人に見せているのはそのほんの一面だけです。他人からどう見られているかというのを気にして、他人の言葉によって自分を定義してしまう人がいます。それは愚かなことです。他人の言葉に振り回されるようでは、いとも簡単に悪魔の餌食になってしまいます。誰も他人のことなんて大してわからないのですから。

では、私がどういう存在か、どうやって知ることができるのでしょう。私自身の自分評についても確かなものではありません。私が私を造ったのではないのですから、自分自身についても未知な領域が無数にあります。「自分なんてこんなもの」というのも愚か者です。

世の中の雑音を消して聖書を開いて見れば、神様が私を何者だと言っておられるかわかります。いわく、神に愛されている者、神の子、光の子であり、神に似た者、聖なる者、王の系統を引く祭司、御言葉を取り次ぐ預言者であり、やがて天使をも裁くことになる身分です。キリストの死をもって買い取る価値のある者です。その能力も無限大であり、罪を犯すことなく生きることが可能であり、キリストよりももっと大きな業を行うことができます。神の栄光のために特別な使命を持っており、永遠に生きることができます。それが私であって、何よりも確実な真理であり、これ以外の評価はどこから来たとしても真実とは言えません。
[ 2015/05/26 12:14 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

おもしろい介入

ペンテコステの日曜日、ジェラルド先生から「あなたが求めることをはるかに超えて与えられる。祈る以上に、満たされる」という預言の言葉を受けて励まされました。ジェリー先生からも友達との良い交わりが与えられるようにと助言と祈りをいただきました。日曜日の夕方に初めて教会に来た絵描きの友人は何人かのメンバーと話したのですが、2人の先生について、「すごいものを持っている。オーラが違った」と言っていました。芸術をやる人は、クリスチャンでなくても霊のことを感じやすいところがあります。



教会の後、友人とそのまま感じの良い喫茶店でお茶をしました。それから乗りで、さらにレイトショーを観に行きました。





祈ってもらったので、今週は何かおもしろい交わりがありそうな期待感がありました。

仕事の後、いつものように伝道をしようと繰り出したら、前の職場の友達が歩いていたので、声をかけました。方向的には家とは逆方向なのになぜかいました。ちょうど彼と今週食べに行こうかなと思っていたところです。後から聞いたところ、家に帰るためにJRの改札をくぐったのに、急に買い物がしたくなって私の職場方向まで来たそうです。歩いて15分くらいはかかるのに、地下鉄を使わず歩いていたので遭遇しました。食事はまだだったので、ラーメンに行くことになりました。「昨日食べたけど、もう1回食べたい」とのことだったので、「それならいい店がある」と連れて行ったら、なんと彼が昨日行った店と同じ店でした。私はおいしいラーメン屋の情報といったらその周辺でその店しか知らなかったのに、数ある店の中で彼が昨日行った店に案内したのです。しかも彼も昨日友人と2人で私が行った映画館と同じ映画館に同じ時間に行ったそうです。観た作品が違ったので会いはしませんでしたが。映画館もたくさんあるし、時間帯もいろいろあるのに、同じ映画館に同じ時間帯いたのです。ついでにそのあとカラオケに行ったら好きな歌手も同じでした。

こういう一致にいったい何の意味があるかはよくわかりませんが、ここまで一致するのは偶然ではないということは確かです。神様が私の人生のささいな1日におもしろい介入をしてくださったということです。

前の職場の友達と話して考えました。私たちは数字をとることにこだわり、試験の合格や収入、出世、何らかの名声を得ることのできる結果にこだわります。そして、目標の数字に到達できないと挫折してしまいます。「なぜですか」と神様に不満を言うこともあります。でも、神様の私たちの人生に対する評価は私たちとは違います。神様は私たちの真心からの慰めや励まし、寄り添いを評価なさいます。何気ない愛の行動を評価なさいます。世の中では決してクローズアップされないような、決して数字に表れないような行動が、神様の目に貴いのです。

御国において、私たちは神様の評価に見合った報いを受けるようになります。世で高く上げられたように見える人も卑しめられることもあれば、世で決して認められなかった人が天の万軍の歓呼を受けて御国に凱旋し、頭に輝かしい義の栄冠をかぶせられます。だから、世の価値観で生きるのではなく、神様の目に適う生き方をする人は幸いです。
[ 2015/05/25 22:34 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

福音の方がもっとリアル

今日は北大の留学生たち中心に集まって信仰に関するドキュメンタリー映画の上映会をします。前回わが家での聖書勉強会に来た職場の同僚もまた参加する予定です。前回来たとき微妙な感想だったので、きっともう来ないだろうと思っていました。でも昨日一応知らせたらすぐに「行く」と返事しました。人の反応なんて分からないので、誰であっても続けて声をかけることが大切です。

たとえ心の中が天国のように感じなくても伝道はします。逆に思い悩みや苦しみに満ちていても天国の福音を伝えます。なぜなら、欺かれやすい私の心の状態よりも、私が伝える天国の福音の方がもっとリアルだからです。

伝道のアプローチの仕方はいろいろありますが、私が今まで実践してきたのは3つです。関係伝道と路傍伝道とネット伝道です。関係伝道は一番手っ取り早く確実な方法ですが、自分の知り合いの範囲に限られてしまいます。

路傍伝道は苦労はしますが大勢の人を対象にできるので、今まで一番実りが多かったです。

ネット伝道はいくつかのサイトに教会の集会を告知するだけで去年は3人導かれ、1人がイエス・キリストを受け入れました。楽して関心の強い人を導けるので、今後もっと開拓していくべき分野だと考えています。今の時代、インターネットで人間関係を作るというのはごく普通になってきています。一人でも多くの魂を刈り取るためには、無視できない領域でしょう。
[ 2015/05/23 16:04 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

正直なところ

自分の心を観察し、正直に告白すれば、ノンクリスチャンが救われることに真剣だとは思えません。正直なところ、どうでもよいように思っていたり、ファリサイ人のようにノンクリスチャンを地獄の燃料のように見なしてしまっているところがあります。

主は隣人を自分の体のように愛しなさいと命じられましたが、自分の体に火がついているのにノーリアクションということがあり得るでしょうか。滅び行く魂のために切に祈らないこと、伝道のチャンスを逃すことは彼らが地獄行きになっても良いと見なすことに他なりません。にもかかわらず、私はそれほど切実に祈っていないし、全力を尽くして伝道していません。隣人への愛はどこにもありません。魂の救いがたやすくない理由は簡単です。私が本気で願っていないからです。本気で願うときは、主は誰よりも強く魂の救いを望んでおられますから、必ず答えられます。問題は私が本気ではなく、私の内に愛がないことです。

愛を探せば、自分にはどこにもないことが分かります。神様への愛だって、全然見出せません。「私は日曜日に教会に行っている」「十一献金をしている」「伝道を熱心にしている」と思ったところで空しい。ただ、律法的な欲求を満たして良心を黙らせたり、思い上がるための材料にしたりするだけで、純粋な愛から出ているわけではありません。私の魂には良いところが一つもありません。

幸いなことに、主は憐れみ深い方です。たとえ今日倒れても、憐れんで助け起こしてくださり、明日また倒れても、また慈しみを持って助け起こしてくださる。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」主の真実は私の愚かさにまさってどこまでも深いのです。「私の敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそ我が光。」

愛のバプテスマを受けるには、聖霊様で満たされることです。一部分ではなく、全面的に完全に聖霊様で満たされるなら、主の愛が私の愛になり、主の御心が私の心になります。私の願うことは何でも答えられ、滅び行く魂たちを救いの行列に並ばせることが容易になります。次の聖日はペンテコステです。聖霊様が恵みによって新たにしてくださることを願います。
[ 2015/05/20 22:55 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

残る実

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと……」

実には残る実と残らない実があります。残る実は、ぶどうの木なる主イエス・キリストに結ばれた枝の実です。

残らない実はぶどうの木につながることを良しとしないで、そのほかの人間の知恵、あらゆる形の律法主義、しるしや不思議な業によって結ばれた実です。それらは外見はぶどうの木の実とそっくりですが、まがい物の実です。砂の上に建てた家、風の前のもみ殻のようなものであって、ふるいにかけられると跡形も残りません。

私が結んでいる実は、果たして残る実でしょうか、残らない実でしょうか。
[ 2015/05/19 23:18 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

キリスト者の完全

ウェスレーの「キリスト者の完全」を読んでいます。今回で4回目です。今まで私が読んだ本で、聖書の次に霊感を受けた本です。



この本以上に衝撃を受けた本はありません。罪なき完全な状態に地上で生きている間になることができるという教理です。聖書は照らしても全面的に正しい内容なのですが、ウェスレーから200年以上経っているにもかかわらず、まだキリストの体に浸透していないのが残念です。

私の理解ではトーレーとかスミス・ウィグルワースのような初期のころの聖霊運動のリーダーたちは当然の前提として完全を信じていたのですが、近年の聖霊派の著書でこれを採用しているものを見たことがありません。

私自身、完全な人にはまだ会ったことはないと思います。完全な人は少ない、そのそもそもの原因が「キリスト者の完全」に対する信仰が薄れているからではないでしょうか。目から鱗が落ちる内容なので「キリスト者の完全」は一読をおすすめします。
[ 2015/05/19 13:47 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

7年間が数日のように

大通公園に白馬がいました。



主は再臨のときに白馬に乗られ、罪にとどまる者たちを裁かれます。

創世記29章を読みました。ヤコブはラケルと結婚するためにラバンの下で7年間働きましたが、ヤコブはラケルを愛していたので、ほんの数日のように思えました。

楽しい時間、愛する人々と過ごす時間というのはあっという間に過ぎてしまうものです。ヤコブの場合は苦しいはずだった労働が、ラケルのことを思うだけで楽しくなったのでした。

愛は苦しみをも喜びに変えます。長時間祈るとき、祈りを苦しく感じたり、労働のように思ったりすることがあるでしょうか。それは神様への愛が欠如しているからであり、愛の動機ではなく律法的な行いを満たすためにしているからです。まだ完全な者になっていない証拠です。

神様への愛にあふれて祈っていたら数時間も数秒にしか感じないのでしょう。それどころか伝道するにしても仕事をするにしても、何をするにしても寝ても醒めても神様への愛によって喜びに満ちあふれるので、地上での生涯は数日かのようにあっという間に終わり、永遠の世界に飛び込むことになるでしょう。エノクのように取られていなくなる人生です。それが一番望ましいと思います。
[ 2015/05/18 13:00 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

ただ一つのこと

伝道の休憩中です。どうすれば救われる人がもっと増えるでしょうか。誰か知っている人は教えてください。

すいぶん前にある人は私に「ひたすら祈るだけでいい。働きは必要ない」とアドバイスしてくれました。文字通りに考えればこんな極端でナンセンスな考えは却下です。主の御言葉は一つとして地に落ちることはありません。「行って、すべての民を私の弟子にしなさい」と主は命じられたのですから、「Go!」と言われているのですから行かなければなりません。働かなければなりません。

ダビデは歌いました。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」ダビデは集中すべき一つのこととして、主との親密な交わりを願いました。イエス様も同じことを言われました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」パウロは違うことを言いました。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

私の献身の御言葉はパウロのただ一つ、「ひたすら走ること」でした。その御言葉の後に「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と書かれています。ひたすら走る前に完全な者にならなければなりません。イエス様は、主の御足元で御言葉に耳を傾ける、主との親密な交わりを持つマリアが、必要なただ一つのことをしたと評価なさいました。御足元にひざまずき、主の御言葉を聞くと、主への愛が聖霊様を通して心から沸き上がります。弟子たちも主の昇天の後にしたことは、福音を宣べ伝えることでなく、聖霊様を待ち望む祈り会でした。ウェスレーいわく、完全な者とは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたがたの神である主を愛しなさい」という御言葉を守る人です。福音で世界を征服する前に、御足元で完全な者にされる必要があります。

今日話したブラジルから来た兄弟も、母教会の牧師が教会の献金を横領したことで、教会が壊滅的な打撃を受けたということを言っていました。大きな教会の指導者たちはよく倒れますが、完全な者になる前に大きな働きを担い過ぎたのではないでしょうか。小さい器が大きな働きを担って破滅するというのは、なんと災いなことでしょうか。器が小さいときに実りが相応に小さいことは、主の憐れみでしょう。
[ 2015/05/17 18:44 ] ブログ | TB(0) | CM(0)

毎日泣いています

このところ毎日泣いています。一つは苦しみの中で心の底から聖霊様に叫び求めて。ペリシテ人が心の内にある命の水があふれる井戸をふさいでしまうことがあります。心がからからに渇き、喜びがないのです。泣いて助けを求める神の子を主は放ってはおきません。

二つ目は罪の悔い改めのため。主に不信仰の罪の悔い改め。本気で神様の働きを求めるとつらくなることがあります。果たして主が求める水準の祈り、清さ、信仰のレベルに届くのか、いつまで待つ必要があるのか、考えるとつらくなることがあります。このような考えは悪魔の嘘です。憐れみ深い神様は、私たち自身の信仰がからし種にも満たないので山が動かないことを知っておられます。そこで、神様は恵みにより私たちの信仰を奇跡を起こすことができる水準にまで強めてくださいます。私を強めてくださる方のお陰で私にはすべてが可能です。だから、思い煩うことなく、感謝を込めて祈りと願いをささげれば、実際に事が起こる前から人知を超える神の平和をいただくことができます。

三つ目は滅び行く魂のため。聖霊様が御自分の悲しみをシェアしてくださることがあります。イエス様はこれから生き返るラザロのために涙を流されました。生き返るとはいえ、一度死んだときに大きな苦しみがあったはずです。イエス様はその苦しみを可哀想に思って涙を流されました。ましてや永遠の地獄に向かっている大勢の魂のために、主が泣かずにはいられるでしょうか。主はいつも泣いておられます。ただ、私たちをご覧になるとき、主は子供に対する無限の愛をもってご覧になるので、多くのクリスチャンには隠されているのです。

死をもたらす悲しみもありますが、命をもたらす悲しみは私たちに必要なものです。
[ 2015/05/15 23:05 ] ブログ | TB(0) | CM(0)