ここ最近聞いた奇跡をいくつかまとめて報告します。 1.経済的祝福 ・広告会社の経営者でノンクリスチャンの人が会社の経営に苦しんでいるときにICF教会に来て、ジェリー先生に祈ってもらったら3日後に大企業から数年分の仕事が舞い込んで来て、そのうちの最初の1年分を頼んでもいないのに前金でもらいました。 ・婦人で、毎朝早く出社して会社の掃除をただでしなければならず、悪口も散々言われて悩んでいる方がいました。ジェリー先生に祈ってもらったら次の日から朝掃除する時間の給料が出るようになり、悪口もピタッと止みました。 ・ジェリー先生はお金の必要を祈ったら、翌日に全く知らない人から「神様からこのお金を渡すように言われました」と言われてお金を受け取ったことが過去に2回あります。 2.癒し 整体師をしている姉妹が脳の癌で苦しんでいる老婦人のために祈ったら、検査で癌が急速に収縮したことがわかり、医者から「これは奇跡だ」と言われました。 証しは聞いたら繰り返される性質があります。私たちにも信じて祈れば同じことが起きますので、やってみましょう。
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昨日の朝祈っているとき、今月はまだ伝道で救われた人がいないことを思いました。それで、「今日3人くらい声をかけるので、1人イエス様を受け入れて救われる人が与えられるように」祈りました。 「今日」という期限をつけて祈りました。期限をつけないで祈ることが多かったのですが、最近は信仰の賜物の開発のためには、答えられたかどうかわかる祈りをもっと多くした方が良いと思い、「何日まで」という祈りを入れるようにしています。 特にヨハネ14:13-14の御言葉を繰り返し読みながら祈りました。この御言葉は改めて黙想してみると特殊です。「わたし」の名によって、「わたし」に願うなら、「わたし」がかなえてあげようとイエス様はおっしゃっています。イエス様の御名でイエス様に願うとイエス様がかなえてくださるというのです。父なる神様や聖霊様には触れず、イエス様尽くしです。こういうふうに祈ったことはないと気づいたので、祈ってみました。 仕事のあと、大通公園で伝道し、2人に福音を伝えました。雪がある内は常に地下街で伝道していたのですが、暖かくなってきたので初めて大通公園で伝道を試みました。2人目に声をかけた高校生はどこかで見たことがありそうでした。よくよく話を聞いてみると、以前地下街で伝道して関心を示していた人でした。福音を伝えると、すんなりイエス・キリストを受け入れました。ハレルヤ!主の完璧な導きに感謝します。
会社ではいま、コミュニケーション研修を行っています。給料をもらいながら真学べるというのはありがたいことです。 研修中のゲームで、声のトーンだけでどういうシチュエーションを表しているのかあてるという表現力を競うゲームをしました。正解はほとんど全く出なかったのですが、2問目の問題で何回か間違えたあと、私が答えを当てました。「えっ、透視能力あるの?」と言われたので、知識の言葉という啓示によってわかることがあると説明しました。すると、3問目もビジョンが与えられて具体的なシチュエーションについて答えを当てられました。 こうやって間違えながらも日常的に賜物を使うことで次第に開発されていくのでしょう。もっと活性化しなければ世の光として輝くには足りません。聖霊様に満たされて力強く用いられるために、あらゆる領域について主の光に照らされて完全になることを求めます。
慣れ親しんだ関係が豊かにある地を離れて、札幌に来たことで体験できたことがあります。行ったことのない教会に足を踏み入れるというのはとんでもないプレッシャーを感じることがあるということです。 5つの教会を回ってみましたが、中に入るのをためらって帰りかけたことが何度かあります。入った後も、果たしてそこに存在して良いものかと心細くなります。まるで招かれてもいないパーティーに無断で参加しているかのようなバツの悪い感じがあります。他の人々はみんな親しい関係ですが、私だけ誰も知り合いがいないのです。 ホスピタリティーのある教会だとそれでも居場所があるような感じを覚えて安心しますが、そうでない場合はかなりきついものがあります。一度行ったとしても、二度目、呼ばれてもいないのに行くのはエネルギーを使います。 未信者が誰からも誘われずに自ら教会に来ることを期待するのは馬鹿げた発想です。クリスチャンである私ですら躊躇するのに、自分で勝手に教会に行く人なんてほんのひと握りです。よほど恵まれた人か、リバイバルのときにあるような直接神様から触れられたというのでもない限り誘われずに教会に行きません。だから、教会は淡い空想話を描くのはやめて、不断の伝道とホスピタリティーのあるケアをしなければなりません。 未信者にとっては教会に行くというだけで大きな飛躍です。心は不安でいっぱいで、緊張しています。そのことを理解してあげる必要があります。一度来た人にはまた来るように続けて声をかけましょう。そうでないと行きたくても自分からは行けません。
ジェラルド先生からもらった「御霊の賜物ブックレット」というものを使って賜物診断をしてみました。結果はポイントが高い順に以下の通りでした。 1位:伝道の賜物と信仰の賜物 2位:使徒の賜物と教えの賜物 3位:知識の言葉 ほとんどが救霊に関わる賜物でした。それしか考えていないので当然かもしれませんが。 知識の言葉に秀でていると思ったことはほとんどないので、3番目までに入るというのは意外でした。もっと啓示と知識の霊を豊かに受けられるようになりたいです。 使徒の賜物というのは状況を奇跡的に変えることのできる賜物、つまり言わばリバイバルの賜物です。この賜物が豊かに現れていくことを願います。 自分の賜物を把握することで、効果的に神様に仕えることができ、忠実な良き管理者として用いられることができます。非常に良いツールです。まだやったことのない方はチャレンジしてみることをおすすめします。
苦しみの意味について考えることがあります。「苦しみはサタンから来る。だから、苦しむことを良しとしてはならない」という教えがあります。癒しと解放をこだわる信仰を持つためには大事なアイデアです。しかし、すべての苦しみについて、この説明で済ませることは単純過ぎるでしょう。神の祝福ばかり強調する「繁栄の神学」では満足できません。悪魔はそんなに強くはありません。苦しみの背後には、神様の御心があります。イエス様は、「あなたがたにはこの世で苦難がある」と約束されました。祝福だけではなく、苦難も約束として与えられているのです。 「子供が病気で苦しむことを良しとする親がいたら、それは児童虐待するとんでもない親だ。神はそのような方ではない」というコンセプトがあります。でも、神様は御自分の愛する独り子を十字架につけるためにこの世に送られました。私が信じる神様は愛する子供をあえて最悪の苦しみにあわせることのある神様です。キリストと同じ神の子であるクリスチャンが苦しむことを主が許されたとして何の不思議があるでしょう。実際イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と命じられました。十字架は苦しみです。十字架は死です。キリストはクリスチャンに、苦しみを背負うことを命じられました。キリストが説く神の国の原則とこの世の常識には大きな乖離があります。パウロもそれを知っていて、「あなたがたには、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と言っています。 苦しみの意味については多くの場合、よくわかりません。わからなくても神様の真実な人格を信頼するのが信仰です。ただ神様が存在するというのを信じるのは悪霊すら持っている信仰です。信仰の要点はどんなときも神様の人格を信頼することです。苦しみの意味は、神様に聞けば、時々わかることがあります。詩篇の著者は聞いてみたそうです。「わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り、ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。」私も時々神様の聖所を訪れて教えてもらうことがあります。 最近教えてもらったのは、苦しむというのはキリストに似るためのプロセスだということです。クリスチャンの人生の目的はキリストに似る者となることです。キリストは憐れみ深い方です。へブル4:15は「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」として、キリストの受けた試練と私たちへの同情を関連付けています。私たちが理不尽な苦しみを受けるとき、それはキリストに似る者となる上で有益なのです。私たちは苦しむとき、キリストのように憐れみ深い者へと変えられていきます。苦しみをもたらす悪魔はやっつけなければなりません。しかし、痛み苦しみをただ嘆く必要はなく、キリストにあっては苦しみさえもすばらしい恵みとなるのです。
去年タイ王国に行く前、大学時代に一緒に政治活動をしていた知人から選挙の応援を依頼されました。何でも統一地方選で新宿区から無所属で出馬しようと目論んでいるとのことです。彼にはひどい仕打ちを受けた記憶こそあれど、助けてあげる義理は全くなかったのですが、敵を愛するということで新宿在住の顔の広い友人を紹介してあげることになりました。タイ王国に渡る前に東京で引き合わすつもりでしたが、なぜか立候補予定の知人から連絡が返って来なくなり、良く分からないまま流れました。 統一地方選後、あれから新宿から出馬すると言っていた彼はどうなったのだろうか、気になったので検索してみました。すると、自民党公認で大阪府議会議員選に出たことがわかりました。無所属で新宿区から出馬と言っていたのに路線変更したのは、さすがに地盤が何もないと無理だと思ったからでしょう。結果は惜しくも落選でした。能力は高いのですが人に頭を下げるのが苦手そうだったので、選挙に出たら苦労しそうだと心配していたのですが、やはりそこらへん有権者は鋭いので支持が得られなかったのでしょう。今まで何の挫折もなさそうな人だっただけに、落選はかなりのショックだったでしょう。選挙で負けたらお金が飛ぶだけで誰からも相手にされず、仕事もなく、惨めなものです。 選ばれないというのは痛い経験です。人は選ばれるために必死で努力します。愛する人から選ばれるために、企業から選ばれるために、社会から選ばれるために、がんばります。でも、がんばっても選ばれないこともあります。それは手痛い挫折です。選ばれたとしても、選ばれ続けるために凌ぎを削って競争しなければならないのです。 私たちクリスチャンはなんと幸いなことでしょう。選ばれるための競争をする必要がありません。なぜなら、天地創造の前から選ばれているからです。しかもその選びは永遠に取り消されることがありません。その一票は無限の重みがあるので、他に一票も入らなくても大丈夫です。ハレルヤ! 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
新しい仕事の初日を楽しく終えて帰宅した後、北大の留学生たちと聖書勉強会をしました。たぶん新しい人は来ないだろうとの見込だったので、今日は四つの法則の伝道実習をしようかと思っていたのですが、予期せぬ新来者が2人与えられて、通常の内容でできました。ハレルヤ! もともと北大のリーダーに会を導いてもらい、私は場所の提供とか祈りや伝道のサポートをするつもりでした。ICFでは新参者なのだからあまり自分から前に出ないようにしようということです。しかし、前回の集まりのときにバイリンガルの集まりにするためには次の回での導きを私がする必要があるということになり、押し出されるように導くことになりました。 おもしろいことに7人集まったのですが、全員国籍が違いました。たしかアメリカ人と日本人の二重国籍、ザンビア、台湾、エトルリア、エチオピア、ナイジェリア、そして日本だったか、キリストの愛がなせる世界的な一致の縮図を見ることができました。ハレルヤ! 聖書を通して主イエス・キリストの話を心置きなく語ることは、私が最も心踊らされる時間です。機会を与えてくださった主に感謝します。
さて、17日に退職して次の仕事が始まるまで5連休、私だけのゴールデンウィークを過ごしました。休みの間、私は何もする気力がなく、心は鬱々して鉛のように重く、ひたすら眠ってばかりいました。祈っても賛美しても聖書を読んでも効果がなく、気晴らしに趣味活動に手を出そうとしてもますますむなしくなりました。久しぶりの友人と会ってみたら、追い討ちをかけるようなことばかり言われて最悪でした。勘弁してくれ! そういうとき、一番効果があるのは「フィリピ4:13」を何度も何度も何度も何度も繰り返し黙想することです。リック・ウォレンの本に書いてあったことですが、精神的に駄目なとき、これで乗り切ったことが何度もあります。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」できるという信仰こそが魂を強め、活力を生み出します。何かしらできないと思っているとき、心が病んでしまうのでしょう。世の中の人に不可能を可能にする神様を証すると、夢みたいな話のように解釈しようとしますが、追い討ちをかけるような友人よりもずっと現実的で頼りになるのが私の神様です。神様以外に真実な友人たり得る方はいないのです。主は私の心を知り尽くしておられ、決して裁くことなく、愛によって導かれる方です。主は苦難のときの逃れ場です。罪人は過ちを犯すと神様から逃げますが、神の子は過ちを犯すと神様に逃れます。ハレルヤ!
昨日、夢を見ました。夢には大阪の実家の猫が出てきました。動き回る猫を捕まえたり離したりしているうちに目が覚めました。起きたら札幌の自宅でした。半分目覚め、半分眠っているような状態でした。部屋の布団の上を猫が動く気配がしました。いるはずのない猫が。悪いものの仕業だと分かり、主イエス・キリストの御名によって退けようとしましたが、身体が動きません。悪霊と押し合うような格闘の末、口を開き「主イエス・キリストの御名によって悪いものよ、離れされ!」と命じると、金縛りが解けて正常な状態に戻りました。 そういえばその前の日も悪夢で目覚めたことを思い出しました。家族のうちの一人とクリスチャンの仲間の一人が私の見ている前で飛び降り自殺をしてしまうという夢です。2日連続で悪夢を見、金縛りにまであうとはあからさまに攻撃されています。たぶん一つには、私の中で悔しいこと、整理のついていないことがあり、信仰の盾が弱くなっているのでしょう。もう一つは教会の交わりに入っていくことについて難しさや気まずさを感じているからでしょう。群れからはずれている羊はいとも簡単にやられてしまうものです。悔い改めます。 今日はICF教会の聖書勉強会で金縛りの経験があるかどうか挙手する時間がありました。おもしろいことにクリスチャンホームで育った人はそういう経験がない人が多いようです。幾千代にも及ぶ主の慈しみの現れでしょう。呪いは3代、4代先まで、慈しみは幾千代です。
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