ビル・ジョンソン先生は「集会の最中よりも終わったあとの一週間がもっと大事だ」とおっしゃっていました。生活の現場で信仰の実践ができるかどうかが本当の勝負なのです。それで、終わったあとも心していたわけですが、主がこの一週間に起こしてくださった最大の御業を証します。
中野ゼロホールに行ったあと、悔しかったことが一つあります。私を通しても4人が癒されたことは感謝ですが、私自身のアトピーが癒されたという確信が得られなかったことです。初日、アトピーの癒しを友人に祈ってもらったあと、1日薬をつけなかったのですが、翌日には耐えられなくなって薬を使ってしまいました。
友人からは「癒されないこともある。パウロもとげが取り去られなかった」と励まされました。友人に励ましには感謝ですが、このパウロの「とげ」が病気であるとするのは、最も有害な聖書解釈の一つであると最近悟らされました。私もジョン・G・レイクの伝記を読むまでは「とげ」というのは眼病かてんかんだと刷り込まれていました。しかし、とげを何らかの病気だとする解釈は大した根拠はなく、実はサタンから来たものです。
どうしてもアトピーの癒しについてあきらめてはならないと思い、集会のあとの土曜日にも信仰の熱い友人に癒しを祈ってもらいました。そして、確信はないながらももう一度薬を使うのをやめてみました。
アトピーという病気は体質的なもの、慢性的なものであって、癒しを確認するためには時間がかかり、その間、信仰の攻めぎあいが生じます。完全に癒しを確認できるまで継続的な祈りが必要です。誰かに執り成しの祈りをお願いする必要もあるでしょう。そこで、主に「誰に祈ってもらうのが良いでしょうか」と聞いてみたところ、私の父に祈りをお願いすべきだというアイデアが与えられました。おかしな話です。何せ私の父はノンクリスチャンなので、祈ることすらできないのですから!何かの間違いだと思い、続けて祈ってみてもやはりそのアイデアが離れません。祈りの中でそういう奇妙なアイデアが与えられるときというのは、たいてい主が何か不思議なことをなさろうとしています。
私は10年前、大学1年のときに教会に通い始めました。当日一人暮らしを始めたばかりたった私はときどき両親に電話して近況報告をしていました。今でもそうしています。教会に通っていることはすぐには言いませんでしたが、「最近聖書を読んでいる」という話はしていました。いよいよ洗礼を受ける段になり、両親にも知らせておいた方が良いだろうと考え、「実は最近教会に通っているんだ」という話をしました。すると、「ふーん、ところで……」と流されました。その日から私の家族伝道は始まりました!
兄弟も上に二人いますが、聖書には「まず強い人を縛り上げてから家の中のものを略奪する」と書いてあるので、父を伝道することに一番力を注ぎました。父は私が何をしても反対せず、むしろ応援してくれ、適格な助言を与えてくれる人でした。そんな父には何としてもイエス・キリストを受け入れてほしかったのですが、何百回受け入れのチャレンジをしても、絶対に受け入れませんでした。教会には誘えば何度も来ました。新約聖書は全部読みました。信仰書をプレゼントしたらたいてい全部読みました。キリストの復活も確かに歴史的な事実だと認めました。でも、受け入れるように促すといつも「そんなにいいことはもっと後にとっておこう」などと言って絶対に受け入れなかったのです!
12日、月曜日、父に電話をしてみました。執り成しの祈りをお願いしました。どうしたら祈ることができるのか聞かれました。祈りの手順を手短に伝えた上で、「祈りが聞かれるようになるためには導入の祈りがあるから、いま私の後について祈ってほしい」と言いました。どんな祈りか聞かれました。「それは、イエス・キリストを受け入れる祈りです。神の子としての身分でないと父なる神様に祈りを聞いていただくことはできません」ということを伝えました。すると、そのまま祈ってイエス・キリストを受け入れました!ハレルヤ!
平静を装って電話を切りましたが、その後、部屋中を飛び跳ねながら30分以上主を賛美しました。きっと天使たちも一緒に喜んで賛美していたでしょう。一人が主に立ち帰ると、神の天使たちの間に喜びがあるというのは本当です。10年間の祈りを真実に聞いていてくださり、答えてくださった主に感謝します。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という約束は真実であり、そのまま受け入れるに値します。アーメン。
アトピーについても、土曜日から一週間薬を使っていませんが、皮膚は悪くなっていません。癒されているという実感が日に日に強くなってきました。あと3週間くらい待って、1ヶ月薬をつけなくても平気となれば、公にはっきりと癒しを証しできるでしょう。
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私は聖霊様の導きにより福島の教会を離れて札幌に移住しましたが、決して離れた福島の教会を憎んでいるわけではありません。その証拠に、彼らのために毎日祈っていることを神様はご存知です。毎日異言で祈っていると主は不思議なことを始めてくださいます。
職場の休憩時間にfacebookの友達申請が来ました。全然知らない人でしたし、共通の友達もおらず、名前は本名ではないようでした。普段ならあやしい申請はスルーするところ、何となく導きを感じたので聖霊様に聞いた上で承認しました。すると、すぐにLINEを交換する運びになりました。どうやら業者とか詐欺ではなく、単に人好きな人で、友達を求めていただけのようでした。年賀状のやりとりまでしました。その後もずっとLINEでやりとりを続けました。そして、先ほど電話でイエス・キリストを救い主として受け入れました!ハレルヤ!
しかもなんと彼は福島に住んでいて、今度の日曜日に私のいた福島の教会に行くことになったのです。札幌にいながらにして福島の教会に人をつなげることができました。主の緻密な導きに感謝します。主の私たちに対する御思いは海の砂粒ほども多く、数え切れません。私たちはその御思いに気づいて主を褒め称えなければなりません。
異言の祈りの力を今ひとつ理解できないでいる友人がいますが、私は異言で祈るようになってからこのようなおもしろい導きを頻繁に受けています。もし異言を解釈する賜物が与えられたら、聖霊様が何を自分に祈らせてくださっているかを知って驚くでしょう。
今日も仕事が終わったあと、札幌駅の地下街で伝道してから帰りました。伝道に集中していると思わず涙が込み上げてきます。本当は毎日伝道に出るたびに多くの魂の収穫を見たいのですが、ビル・ジョンソン先生の集会に出ても、そこまでの油注ぎはまだいただいていないようです。インスタントに行かないとしても、密室での主との親密な交わりを続けることです。
ここ1年くらい、切なる心で伝道していたり、切なる心でリバイバルのために祈ったりすると、涙があふれてくるようになりました。人間の私でさえそうなのだから、聖霊様は滅び行く魂を見て号泣しておられることでしょう。誰よりも罪人の救いを願っておられるのは主です。私の涙は聖霊様と御心を一つにした結果ですが、聖霊様が抱いている切実さと比べたら千分の一にも満たないように思えます。
さて、ビル・ジョンソン先生の集会「Kingdom has come!」に参加して、一週間が経ちます。前回タイ王国から戻ってきたときは、すでに次はビル・ジョンソン先生の集会に参加することを決めていたのですが、次回はどこに行くかは明確ではありません。沖縄に行くことや中野ゼロホールでもらったチラシに書いてあったデイビット・テイラー先生の集会に行くことも考えていますが、どちらも少し先の話です。聖霊様に要相談です。
東京に行ったとき、一人の献身者から私に対して、教会の上に竜巻が発生するビジョンを預言してもらいました。その竜巻は教会を破壊するような悪いものではないそうです。彼自身は解釈が示されなかったのですが、私は、自分が聖霊様による旋風を教会に巻き起こすのだと信じました。
ここ数ヶ月いろいろな教会に行き、また、いろいろな教会の人たちと交わる機会がありました。どの教会もそれぞれすばらしく、魅力や良さを発見することができました。しかし、どこに行っても感じるのは、私の母教会ほど伝道熱心だった教会はないということです。そのお陰で、私も自然と常に人々の救いばかりに関心を持つことができるようになりました。この伝道スピリットはぜひとも伝染させたい。切なる伝道スピリットと聖霊様の油注ぎ、この両方を兼ね備えればリバイバルしかありません。
教会にはそれぞれ良い文化や伝統があり、そういうものを理解せずに型にはまった方法論を主張するのはよくありません。なので、教会の持ち味をよく活かした上で、竜巻のような力強い聖霊様のムーブメントを起こすことに用いられたいと願います。
私の本棚にはご覧のように信仰関係の本がずらりと並んでいます。
おととし、東京から郡山に引っ越すとき、半分くらい人に配ったのですが、それてもたくさん残り、また増殖し始めています。これらの本は私の本でありながら、私のものではないと思っています。
クリスチャンになり、伝道熱に火がついたばかりのころ、なんとか人々を救いに導きたいと切望しました。しかし、自分には霊性はないとわかっていたので、知識で武装して霊性のなさを補おうと信仰書を読みまくりました。ところが、いつしか信仰書をコレクションすることに熱心になってしまい、信仰書が偶像のようになり始めました。神様を求めて信仰書を読むことは良いことですが、いつのまにか信仰書を集め、知識を自慢することに主眼がすりかわってしまったようです。私はそれに気づいたので、何か手を打たなければならないと考えました。
聖書では、タラントンのたとえで、賜物を地に埋めてはならないと警告しています。本も神様からいただいたもの、神様から管理をまかされている賜物です。自分の本棚にある本で、一生のうちでもう一度読み返す本は何冊あるでしょうか。一度読んだきりで開くことのない本、本棚に飾ってあるだけでもう一生読まない本も多いのではないでしょうか。それを考えたとき、読んで良かった信仰書はことあるごとにシェアし、積極的に人に貸したり、場合によってはプレゼントしたりすることにしました。こういう行動は地味な働きですが、続けていると時に威力を発揮することを体験してきました。
最近、友人にハイディ・ベッカーの「愛に燃やされて」を貸しました。すると、友人が実家に帰ったときに、ノンクリスチャンのお母様がその本を見つけて、「ぜひ読みたい!貸して欲しい!」と頼んできました。モザンビークの宣教師の聖霊様の働きに満ちた本を、友人のノンクリスチャンのお母様が読みたいと懇願したのです。ハレルヤ! 読めば神様に心開かれることは間違いありません。
何でお母様がそんなに読みたがったのか、後で友人に聞いてみたところ、「マザー・テレサをモデルとして活躍している人の本」というふうに話したら、マザー・テレサが好きなので、興味を持ったそうです。私の本棚にある本でハイディ・ベッカー以外にマザー・テレサを範とする著者はいません。貸したのが他の本でなく「愛に燃やされて」だからこそ用いられたのです。主のすばらしい導きに感謝します。
今まで本を貸したり紹介したりするだけで、救いのために大きく前進したことが何度もあります。何がどのように救いのきっかけに用いられるかわかりません。だから、私たちは神様にご利用いただけるツールをなるべくたくさん持っておいた方が良いでしょう。